前里光秀大学② 「分からない」という壁 

「変化」=「エリア」








「すべてを手にしている」という言葉には、
その1人称がもつ世界観が表れています。

本当は「すべて」というのは文字通り「すべて」のことですが
前里が感じる「すべて」と、僕が感じる「すべて」は違うんですね。


恐らく前里の「すべて」は
僕の「すべて」よりシンプルでしょうし、
生まれたばかりの赤ちゃんの「すべて」は
僕の「すべて」よりシンプルなのだと思います。

人はみな「すべて」を手にしていますが、
その「すべて」の掴み方(=手放し方)が違います。




僕たちがスピリチュアル世界に興味をもつ理由として
「すべて」を知りたい・体験したい・感じたい
ということがあると思います。

また僕自身それを提供するために
こういう記事を書いています。



例えばそのときに僕の書いた記事で
「これは分かる」けど、「これは分からない」
という振り分けをすると思いますが、
じつはその「分からない」についても
あなたのエリア内だから「分からない」を体験している
と言うことができます。

なぜなら、この世界を創造している自分自身
「エリア外」を体験することはできないからです。

この情報も、あなたのエリア内だから届いてますし
「触れる」という体験ができています。









では、なぜ「分からない」のか?

その様子を前里は図にして詳細に解説しました。




それは、「エリア内に壁をつくっている」ということです。

その壁のこちら側は「分かる」情報で
向こう側は「分からない」情報。

そうして分断させてエリア内に「分からない」を
つくり出します。

だから冒頭で前里の「すべて」は僕のよりもシンプルである
と言ったのも、圧倒的に「壁の量・厚さ・軟らかさ」が違うからです。









ここで前里が、「分からない」との付き合い方で
さらに面白いことを3つ教えてくれました。



1つ目は、この「分からない」ものを無理やり分かるようにする必要はなく、
「分からない」ままにすることも必要だということです。

なぜならもともと「分からない」ようにさせるシステムがこの地球にはあって、
その制限はこの地球での「楽しみ」のひとつだからです。

それが、例えば潜在意識の働きですね。
(この話は、掘り下げるともっと大きな広がりをもちます)

そういうシステムがある中で、「分からない」に苦しんでも
「分かる」ようになる正規ルートではありません。



2つ目は、その正規ルートについてになりますが
「分からない」を「分からなくていい」とある種楽観的に手放すことによって
エリア内の壁がなくなっていきます。

それは、「分からない」を「楽しむ」
ということと同じなんです。

本当に知りたい情報を、分からなくても「楽しむ」ことは
その態度・余裕の中に「どうせ分かる」という意味を含みます。

そういう長いスパンでのエリア内への配慮により、
「分かる」「分からない」を隔てた壁が消えていくんですね。








そして3つ目。


3つ目は、僕にとっては大きな盲点でした。










前里光秀研究所 和田一真
関連記事