実は3日目のセッションには
別の出来事もありました。
中身のない話をしてしまったあのセッション中に
僕はひっそりとある体験をしていました。
それは、僕の話が終わって、
前里が2人のやり取りで何が起きていたのかを説明し、
次の段階の話へと進んでいる時のことでした。
もう外は暗くなっていました。
部屋の中はもちろん明りがついています。
窓のそばでセッションをしていましたが、
外からの明りはありません。
セッション中の3人を照らすのはその部屋の明りだけでした。
だからこそ、それが不思議な体験だと思ったのです。
僕の向かって左側に前里、
右側に受講者の方が座っています。
僕から2人の距離は1mほどでしょうか。
とにかく2人は僕の「前」に座っています。
僕はその状態で前里の話を聞いていました。
そしてしばらくしてふと感じたのが、
柔らかい風のような感覚。
僕の右斜め後ろからでした。
風といえば吹くイメージでしょうが、
その風はそっと寄ってくる感じでした。
そしてその風には「色」がありました。
ものすごく細かい粒子の黒が、
薄~いベールを作っている感じ。
外国のお葬式の映像で、
女性が黒い帽子の前にたらしているベールのようなものが、
とてもとても薄くなって空中に浮遊すほど軽くなったようなもの。
それが僕の右斜め後ろからそっと寄ってきて、
僕の顔を撫でるように通り過ぎました。
影が横切ったと言えばわかりやすいのかもしれないが、
どうしてもそんな単純な描写では伝えられない感覚でした。
また、自分にかかる「影」を作るには、
自分の手を上にあげる必要があったので、
瞬時に勘違いではないと気づき、
一瞬「ドキッ」としましたが、
セッションの途中でもあったので、
僕はそのまま何もなかったように平然としていました。
そしてセッションの翌日、
僕はそれを前里に話しました。
そしたら意外なことがわかったのです。
前里は驚いていました。
「あれがわかったの?」
こう言いました。
そして僕は「宇宙人が通り過ぎたんじゃないの?」
と冗談交じりで言いました。
明らかに何者かを感じていた僕ですが、
こんなリアルな体験は初めてにもかかわらず、
なぜか冷静でした。
そして前里の言う「あれ」の正体を聞きました。
結局「あれ」は宇宙人ではありませんでした。
それでは「あれ」とはなにか。
その正体は
「宇宙人の意識」
でした。
どういうことかというと、
そのものが僕の前を通り過ぎたのではなく、
宇宙人がこちらに意識を向けただけだということでした。
前里が驚いていたのは、
その微細なエネルギーに僕が気づいていた
という事実に対してでした。
まさかあれがわかるとは思わなかった。
予想以上に知覚が拡大している。
そう言われた僕の心は子供に戻っていました。
昔から「超能力者」になりたかったので。
実は僕はあの瞬間の直後、前里にこう言っています。
「超能力者になったみたい」
それほどまでに衝撃的だったからです。
でもそれがただの冗談ではないということを、
こういう体験が教えてくれるのだと思いました。
そしてもう一つ前里が教えてくれたことがあります。
前里はこう話してくれました。
宇宙人はただ意識を向けただけではないよ。
意識を感じて窓の外を見たら、
あの木のずっと上の方に
「UFOが来ていたよ」
僕はワクワクしてその話を聞きながら
「もうそんなに遠くないんだな」
そう思っていました。
- [2019/09/30 11:11]
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僕は後日、この出来事を自分なりに考えてみました。
今回はそれを書いてみます。
僕はあの時「価値満タン」を知りました。
頭ではなく心で知りました。
豊かさに触れた瞬間でした。
それは素直に嬉しかったし感動した。
でも、手放しで喜んでしまいました。
「自分は価値満タンではない」
と公言したのです。
「たまには価値満タンになる」
という方がリアルかもしれません。
そして僕はこう考えます。
すでに前から持っていて毎日遊んでいるおもちゃを、
明日おもちゃ箱で見つけて大喜びするでしょうか。
まるでたった今プレゼントしてもらったかのように、
手放しで喜ぶでしょうか。
決してそうはならないはず。
元々自分が持っているものは、
たとえそのおもちゃが大好きで大好きでたまらない子供でも、
淡々と遊び始めるでしょう。
それをまるで初めてのように喜ぶとしたら、
「毎日遊んでいるはずのそのおもちゃを持っていなかった」
と勘違いした時くらいだと思います。
そんなことがあるのかどうかは別として。
私達は一人残らず「価値満タン」
どんな状態であろうと、その”状態”です。
それはすでに持っているおもちゃです。
確かに忘れているかもしれません。
でもそれは勘違いなのです。
忘れて遊んでいる。
なのに、元々そうであるのに
手放しで喜ぶということは、
そうではなかったかのように振舞うのと同じこと。
それは心からすれば
「そうではない」
になってしまう。
価値満タンで在り続けることは当たり前ではないと。
たまにそれに気づく程度でいいんだと。
実際には、価値満タンを使って
価値満タンとは思えない現実を創るということになる。
なんとも複雑だと思います。
元々持っているものは持っていて当たり前。
そのシンプルさが豊かな現実を創造するコツなのだと思います。
だから、その瞬間を体験した瞬間には是非、
これを心掛けてください。
「喜ばない」
- [2019/09/30 10:10]
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「なぜ今日はこんな風になってしまったのか」
それは結局、僕が調子に乗ったからだということでした。
それは「喜び過ぎた」という意味でした。
前里はそれを「空気が抜けた」と表現しました。
しっかり学んで知った。
そして心が空気でいっぱいに満たされた状態でになった。
しかし、軽い喜びがそこに穴を開け、
そこから空気が抜けたんだ。
でもこれはあくまでも表現です。
心は常に満たされています。
そしてこんな話もしてくれました。
たとえばスポーツ選手によくある「スランプ」
それもこれと同じなんだと。
初めはどんどん調子良く上がっていく。
初めはしっかり自分を見つめ、
自分を磨くことを忘れないから。
心がそこに全力で向かっているから。
そしてある一定のところまで上昇すると、
無防備に喜んでしまうことがある。
その喜びは
「もうこれで十分だ」
「これ以上は要らない」
という表現でしかない。
それは練習をしなくなるということではありません。
でも、心は一旦休憩してしまう。
それで空気が抜けてしまう。
そうなると今まで通りやっていてもなかなか結果が出ない。
でも何が違っているのかわからない。
これまで以上に一生懸命やっても変わらない。
むしろ怪我をしてしまったりする。
それはせっかく積み上げてきたものを、
手放したような状態になっているから。
芯が抜けたような状態になっているから。
それを「スランプ」と言っている。
そして試行錯誤しながら、
がむしゃらにそれに向き合うことで、
また元の状態に戻っていくんだと。
でも決して「喜んではいけない」という意味ではありません。
じっくりゆっくり、心の深いところ、
腹の下の方で喜ぶものなんだと言いました。
そうすれば問題ないと。
あるスポーツ選手が派手に喜びを表現しないのは、
心がそれを知っているからなんだと。
僕はその逆をやりました。
簡単に喜びすぎて、
「もうこれでいいんだ」
と勝手に決めてしまったのです。
でもそれは”僕自身”が決めたことではありませんでした。
では誰が決めたのか。
それは”心”です。
心がそう決めたのです。
もちろん心も自分ですが、
”顕在意識”を自分自身とした場合の表現として、
心を他人のように書いています。
ともかく
これからが始まりであるにもかかわらず、
まるで長い道のりのゴールに辿り着いたかのように
僕は満足し尽くしてしまいました。
それは全力で
「もう十分です」
と公言しているようなもの。
そうなれば間違いなく、
心はそれ以上の現実をストップします。
1ミリのずれもなくリクエストに応えます。
そして空気が抜けたように、
現実がしぼんでいくのです。
「良からぬ芽」は、
単に下心から芽生えたものではありませんでした。
手放しで喜んだ瞬間、
さらにその奥に、下心の種が埋められたのでしょう。
- [2019/09/29 21:21]
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セッションの後は前里と食事に行きました。
その場は楽しいという雰囲気からは
遥か遠い場所にありました。
会話もそこそこに、静かに食事を済ませ、
東京オフィスに戻ります。
そして、テーブルで向かい合わせに座りながら、
ゆっくり話が始まります。
「お前はスマート過ぎる」
それは、僕が昔から持っているテーマのようなものでした。
必死に何かに取り組んだり、
不器用に何かをやることを、
自分の生き方からはずしていました。
言い換えれば「できることしかやらない」となります。
「なぜもっとがむしゃらに学ぼうとしないのか」
初めはこの言葉の意味がわかるようでわからなかった。
なぜならこの数日間は
これまでにないほど学んでいるつもりだったからです。
実際にそれに間違いはありません。
しかし、前里が言っていることは、
そんなに複雑なことではありませんでした。
「なぜ聞かないのか」
今日の出来事をなぜもっと貪欲に、
もっとがむしゃらに知ろうとしないのか。
僕の中にはこんな思いがありました。
「セッション終了直後に前里を質問攻めにするのも申し訳ない」
「聞きたいことについてはメモを取ったから後で聞こう」
だけど、そんな思いは必要ないと前里は言います。
どんな状況であろうと、本気で学びたいなら聞けばいい
何も聞かずになんとなく終わってしまうことの方が、
どれだけ自分をがっかりさせることになるか。
結局、僕は自分のことしか考えていませんでした。
前里に配慮しているように見せながら、
今の自分の状態と対面することが怖かったのかもしれない。
それは、すぐ目の前にいる前里の為にもならない。
これから出会うであろうたくさんの人達の為にもならない。
誰も喜んではくれない。
そんなことも思いつかないまま、
自分を守っていたことになります。
そして僕は何かが吹っ切れました。
「なぜ一番最初のセッションの方とこんなに違うのか」
「なぜ今日はこんな風になってしまったのか」
前里はしっかり話してくれました。
最初のセッションの方と違うのは当たり前だ。
確かに明確な違いがありました。
最初の方の時は、初めに前里が話をしていました。
単純に場が出来上がった状態だったということ。
前里は、受講者の為に、
僕の話がなるべくスムーズに届くようにしていたのです。
ありのままを受け入れる状態こそが、
受講者の方への最高のプレゼントになるから。
そしてそれは僕の為でもありました。
「本当に伝える」
ということを知ってほしかった。
そして、お前にも喜んで欲しかった。
結局、僕は前里の大きな配慮の中に居たのです。
そしてもうひとつの質問の答えは、
また人の心の緻密さの中にありました。
- [2019/09/29 20:20]
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あれから3日目。
特別顧問セッションがありました。
そこでも僕は、あの話をすることになっていました。
3人目の人になります。
でも、僕はすでに伝えることの喜びを忘れています。
「人の為」という重要なキーワードを忘れています。
でも実際は忘れているつもりはありませんでした。
そんな中で受講者の方が来ました。
何度もお会いしている方です。
僕は、僕の知ったことを、その状態を、
全部その方に伝えようと思っていました。
本気で喜んでもらいたいと思っていました。
でもダメでした。
また、話し始めた瞬間にわかりました。
ただただ伝えようと思うのに、
「何をどう組み立ててどこから話せば…」
頭が働き始めています。
でも僕は続けました。
”一生懸命頑張りました”
そして友達に話した時と同じように、
伝わっていないと思いました。
言葉数が多くなり、必死になり…
1時間話し続けました。
実際は自分ではよく分からなかったです。
そんなに時間が経っているとは思いませんでした。
そして話が終わり、なんとも言えない空気感が漂う中、
前里が冷静に話し始めました。
「今、何が起きていたのかを説明します」
これが難しさであり、人の心の仕組みなんだと。
まずは僕。
話に中身がない。
入り口と終わりを話しただけで、
中身が一切なかった。
「価値満タンを知った!」
「・・・」
「すごかった!」
ただそれだけだったと。
それに1時間もかけたのです。
結局は、なかなか伝わらないという不安が
言葉数を多くし、時間を費やしただけだったのです。
その前里の言葉に、僕は心底納得しました。
そして実は、前里はこうなることを知っていました。
受講者の方が来る直前に、
こういうやり取りがあったのです。
「また話してもらうけど大丈夫?」
大丈夫だと答えた僕に
「甘いんじゃない?」
と言いました。
心をほったらかしにしている僕への警告だったのでしょう。
話は戻ります。
前里はたんたんと話し続けました。
そして、僕はまた
人の心の巧みな動きを知ることになりました。
受講者の方の心の状態です。
「変わりたい」という思いで受講しているはずの
特別顧問プログラムの中で
「変わりたくない」
という真逆の状態だと言います。
どういうことか。
実は受講者の方は、
僕の話を聞いて感動してくれたんです。
涙も流しました。
少し興奮しながら、楽しそうにいろんな質問もしてくれました。
一見すれば、とても実りのある1時間だったように思えるかもしれません。
実際に受講者の方もそのつもりでいたはずです。
だけど、僕の話には”中身がなかった”のです。
そこが重要です。
受講者の方は中身のない話を聞いて感動したのです。
実際に前里が「今の話のポイントは?」
と聞いたとき、その方は答えられませんでした。
でもその方は、中身のない話を聞いて
「知ったつもり」
になって終わらせようとしたのです。
実際は心がそうさせたのです。
これ以上の情報は入れまいとする心が
”中身のない話”を入れたということです。
そして感動という勘違いまで引き起こし、
「これでよし!」と完結させようとしたのです。
結局は僕もその協力者でした。
そしてその方も僕の協力者だった。
あの日から遠ざかっていた僕の心は
”受講者の方が感動してくれた”
というまやかしを見ることによって
「やっぱりこれでいいんだ」
と完結させようとしていたのです。
うっすらと残る程度の違和感は、
前里の言葉がなければ消え去っていたでしょう。
そして僕は、とてもとても大切なことを
忘れたままになっていたでしょう。
- [2019/09/29 18:18]
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