自分への問い。 

何もない







答えを出すことで、
見逃してしまうことがたくさんある。


僕は、情報の「意味」「理解」しようとする。
方法や、その効果を知りたがる。



「先を読みたがる」


「先を読めている」と勘違いする。




それで、たくさんのことを見逃す。
それで、たくさんのことを「読めない」



もともと「答え」自体がなく、
「答え」を探すことに意味もない。

そんな時間の浪費をする理由は、
「知っている」という、偽装された安心感を欲しがるから。


「偽装の安心感」には、人生を止める作用がある。







その逆もある。


それが「偽装の不安感」


これから起こることを「読めている」「知っている」

この勘違いは、
起こるはずもない災難を答えとして確定する場合が多い。




「偽装の不安感」には、人生を後退させる作用がある。






そして、少しそれに気づくと今度は、
不確実な、不確定な世界であることを嫌う。



偽装の安心感であろうが不安感であろうが、

「知っていないと歩けない」

という「超勘違い」から抜け出せないからだ。


だから、まずは自分が勘違いしていることを知ってみる。

その超勘違いに触れる方法は意外にも簡単。



今ココにいる自分を見てみる。

例えば、自分の姿かたちや仕事、家族、友人、恋人、住んでいる家… など。

それを一ミリの狂いもなく「知っていた」という人がこの世界にいるのだろうか。




結局は知らないまま「今ココにいる」




不確実、不確定のルールを、ごく自然に取り入れながら、
それは嫌だと言っている。






しかし、「何も決まっていない」ということは、
「何でも決められる」ということ。






ただし、いろんな言葉や表現でこの話を聞いても、
さらにいろんな言葉や解釈で「別物」にする。



それだけならまだしも、
どこか鼻で笑ってしまう部分はないだろうか。


「スピリチュアル」という枠自体を、
なぜか鼻で笑ってしまう部分がないだろうか。



それもまた、答えを知っているという勘違いからの副作用。




知りたい、知りたがる。
わかる、わかりたい。
知っている、知りたくない。


そんなことには、まったく意味がない。




















「学ぶ」ことだけに意味がある。
















川満由希夫
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