前里光秀大学【38】 Doが存在しない場所 

これまでのような講義を聞いて、
受講生が何を学びどう感じるのか。

「感じる」というのは、心にある「観念」に触れることで、
それは同時に「自分の心の中を見つめる」ということです。

実はそれをそのまま表現するのは難しいことです。




普段から「これをしよう」「あれをしよう」という
「Do」が先行した生き方は、
「何を感じるか」という「Be」を聞かれたときにも
「Do」で答えてしまうことがあります。

本当は、「Be」を味わい感じて
それから「これをしよう」がふつうですが、
たくさんの情報があふれる中で、それを体験することが
自分の生き方になってしまっているのです。



家に帰ってすぐにテレビをつける。

そういう人の多くは、実はそのテレビを見たいわけではなく、
「見る」という「Do」があって
それを受け入れている「Be」をつくっています。

それは、自分の在り方を環境に求めているので、
その時点で本当に好きなことは分かりにくいようになっています。

自分の「Be」があってはじめて「Do」を選ぶのが順序ですから、
このような人生モデルは、決して幸せなものではありません。


前里がそう言ったわけではありませんが、
「どう感じるか」、そういう感性を鍛えるには
美術館がよさそうです。




「美術館には、Doがありません」




前里はそう言っていました。

美術館で絵画鑑賞をするということは、
その行為の中で湧きあがる感情を感じようとすることです。

そこにはそれ以上の「Do」はありませんが、
その「感情」からインスピレーションを受けた「思考」が、
実生活の中での「行動」につながるようにもなっています。


そして、「感情」をつくりだすもとが「観念」


だから結局は、美術館に行くということは
「自分の心の中を見つめる」ということになります。








前里は、そういう時間を特に大事にしています。

そして、美術館のような静かな場所に価値観を見出すと、
自分の心の中に静かな洞察が生まれます。

そうすると、こうなります。




「規則性のないリアリティに、規則が見えるようになる」




規則とは、ルール、法則のことで、
それは紛れもなく「創造の仕組み」



もちろんこれは、そこを目指すことがいいわけではなく
結果としてのギフトです。

その順序も、大事ですね。








前里光秀研究所 和田一真