シーナ・アイエンガーの実験。
「24種類のジャムを売り場に並べた時と6種類のジャムを並べた場合を比較すると、
前者の売り上げは10分の1しかなかった。」
私達には選択肢があります。
右か左かという単純なものではなく
四方八方という限られたものでもない。
方向で表すと「無数の方向」ということになる。
無数の方向とは無数のパラレルリアリティ
それを選択しながら生きている。
それを可能性という言葉に置き換えれば
「私達には無数の可能性がある」ということになる。
無数の可能性を前にワクワクして生きるのはとても幸せそうだ。
楽しそうだ。その方が生きる気力も湧き上がる
「何も持っていないことはすべてを持っていること」
この言葉もそれとほぼ同じ意味を表している。
無数の選択肢を制限なく自由に選べる私達は
ただそれだけで価値満タンであると。
そしてそれを知った時の高揚感はこれまでにはないモノでした。
でも
「3次元というこの世界でそれは、
100%の真実とは言えないのではないか?」
あえてこう考えてみるとどうなるか。
もしかしたらこれは「真実」の表面を薄く削り取ったような考えかもしれない。
でも、私達は「3次元の制限」を楽しんでいる存在なのだから、
これが「真実」の中心に近いのかもしれない。
どちらにしてもなにが正解かにこだわらずに考えてみたい。
ジャムの実験からもわかるように
「人はたくさんの選択肢の前ではどうしていいかわからなくなって選ぶのをやめてしまう」
これは「考えるのをやめてしまう」ということになる。
ある程度の制限の中の方が安心すると言っても過言ではない。
これはあくまでも選択肢一つ一つが何であるかを知った範囲での事柄ではあるが、
共通するものがないとは言えない。
私達は無数の可能性を前に「どうしていいかわからない」状態である場合が多い。
それは考えるのをやめてしまっている状態。
思考停止状態ということになる。
わたしたちの生きているリアリティの中では
「思考停止」=「非行動」
行動しないという状態から何かを得るのは不可能のように思う。
そしてその状態を苦しいと表現する場合もめずらしくない。
はたしてそれが「幸せで、楽しくて、価値満タンな状態」と言えるのだろうか。
無数の選択肢を自由に選べることが「幸せ」なはずが
無数の選択肢があるがゆえに「苦しい」のだとすれば
この世界は矛盾しているとしか言えない。
否定的なことを言いたいのではない
「その現実さえも楽しんでいる」
そういえば終わってしまうかもしれない。
でも生きる体験をしている以上、少しでも負に感じる体験はしたくない。
それをぶち壊すような体験を重ねたい。
それは誰でも思う当たり前のこと。
そして「その方法は・・・」と考えたとき、
この矛盾にこそ大きなヒントがあるのではないかと思う。
続きはまた次回。
前里光秀研究所 川満由希夫
- [2012/08/28 23:23]
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