研究生 東京レポート④ 

そして、自分から下げられるかどうか、
「強さを出さない強さ」、摩擦を起こさず人を優位に立たせ、
自信を持ってもらう。

と、徹底して他人に光を当てる教授が続きます。



ここで僕が「細かい」と思わず舌を巻いたのが、
もし自分が人から光を当てられた場合、
つまり人から立てられたり、褒められたりした場合、
それを享受してもNGということでした。

立てられたとしても逆に立て返す。

一瞬でも自分に光を当てず、他人に光を当て続ける。



前に、知人のカウンセリングを
ミツさんに緊急で依頼したことがありました。

出張を翌日に控えていたにも関わらず、ミツさんは快く承諾してくれて
カウンセリングのおかげで事は上手く運びました。

僕がお礼を言うと、ミツさんは
「俺は何もしてない」と言いました。

そのとき僕は「?」と思って、その言葉の意味がわからなかったんですが
ミツさんは享受しないということをこのとき既に実践していたんですね。


そして、その人がいないところでこそ、
その人を立てることの重要性。

ミツさんは講義中、
何度もこの場所にいない剛さんやゆきぃさんを立てていました。


ミツさんの放つこの情報のすごいところは、
すでにミツさんが実践して効果を体験し、
線の通った状態で聞く人におくられるというところです。

なのでその言葉には穴がなく、
聞いたその瞬間に「なるほど」と腑に落とせることです。


この話を聞きながら、ミツさんが普段何気ないところでも、
例えばスーパーのレジの人、ファーストフード店の店員さん、
ブティックの店員さん、タクシーの運転手さん、居酒屋の店員さん
を立てている日常が次々にフラッシュバックしてきて、
その映像を回想しながら見る、
少しでも人を立てるチャンス・瞬間があれば立てる。

というこの貫徹したミツさんのスタイルは正に圧巻でした。



ミツさんが上手に無意識的にその実践ができるというのは、
宇宙人から直接情報をとるという、
その臨場感の中でのやり取りがなせる技だと思います。

講義室にはその臨場感が溢れていますから、
「生」の情報を受け取るということは、
その瞬間に意識の深いレベルにその情報を落とし込み、
無意識的に日常でそれが実践可能ということを意味しています。


伝言ゲームのような形でこの情報を聞いたとしても、
なにか道徳的な匂いを感じて、あまりわくわくしないかもしれません。


そして、「今の状態の自分に光を当てられたくない」
と思っている人には光を当てない。

それもその人を立てることになり、
なんでもかんでも立てればいいというのは雑で、
その繊細さも持ち合わせなければならないとのことでした。



僕が沖縄に帰って友達とドライブをしているときにこの話をすると、
友達もこの情報の実践的な有効性やその細かさに驚いていました。

そして帰り間際、友達が

「今日はすごい話を聞いた。
 この話を聞いたから立てるわけじゃないんだけど、
 公彦にはいつも感謝している。ありがとう」

と言いました。



しかし僕は

「いや、俺のほうがいつもお世話になっているよ」

と享受せず、友達を立て返します。
すると友達も享受せず、また更に僕を立て返してきます。
それでも僕は享受せず…。

車内はコントのような異様な空気に包まれました。



友達がすぐにこの話を理解できたのも、僕が東京から帰ってきてすぐに、
その大学で感じた臨場感が溢れ出た状態でこの話をしたからだと思います。

結局「自分がない」状態が幸せな生き方で、
「自分が、自分が」というのがいかに損をしてるのか。



この自分というものがなく、常に人を立てる状態が
逆に、「あの人はどういう人なんだろう?」と人から関心を持たれ、
格上の人からは「話を聞いてくれる人」として好感をもたれ、
人を紹介されたり、その人の思いによって引き上げられます。

仮にその人からの引き上げがなかったとしても、
集合意識が引き上げてくれます。


面白いのは、これが既存の道徳概念ではなく、
人生創造の上での実践的なスキル・あり方になっているというところです。

裏を返せば、校長先生が話すような道徳的な概念には、
この本質の仕組みが隠されているということになります。



大抵の人は自分を上に上げようとします。

自分、自分、という状態になり、
人から時間を奪ったりします。

自分が出す表現が、自分が受け取る表現になりますから、
時間を奪えば、時間を奪われます。

これは怖いことで、
人から時間を奪うことが癖になっている人は、
奪われる時間が積み重なっていって、その重みから、
ついには病気という形で奪った時間を返さなければならず、
上に上がれなくなってしまいます。













前里光秀研究所  研究生 比嘉公彦
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