「芸術品のような時間」 



「芸術品のような時間」



とても美しい言葉です。


ある方が前里の講義を聞いて、

「まさに芸術だ」と言ったことを思い出しました。



なんとも美しい表現をする方ですね。

それをさらり言えることに感動します。



僕は生まれて初めて芸術というものに触れた時、

感動という言葉では届けられない、

なんとも言えない心の疼きを感じました。

魅了される という体験だったのだと思います。


その時に訪れた美術館の中は、

思いのほか静寂とはかけ離れていて、

躍動が静かに地を這っている様なモノを感じました。


そこに在る自分というのは、

ある意味では夢中で、ある意味では冷静。

頭ではなく”心で感じる”ということが

ごく自然に行われていました。


僕自身、近頃では豊かさという言葉を口に出す機会が多くなり、

豊かさとは何なのかと考える時間、

またそれを体感する「瞬間」を味わえるようになってきました。


そしてまさにその「瞬間」というのは、

芸術に触れた時そのものだと感じている。



音楽はどうだろう。

僕は音楽が好きです。

最近はクラシックを毎日聴いています。

「鑑賞している」とまではいかないが、

今ではそれが日常になり、教室でも常にクラシックが流れています。


仮に音楽を豊かさに例えた場合、

音譜の1つ1つはその材料ということにします。

そのたくさんの音譜を自由に組み合わせ、

調和を創っていく。

リ ズムや和音が重なり合い、

唯一無二の音楽になる。


「豊かさになる」



私たちの人生もそれと似ている。

今日の出会いが音譜。

今日の涙が音譜。

今日の優しさが音譜。

芸術に触れた昨日が音譜。

仕事を頑張った昨日が音譜。

生まれてくる子供に会う明日が音譜。



いろんないろんな出来事や思いが、

人生という音楽を創る。

そのひとつひとつが豊かさの材料だ。


いや、本当は豊かさを”思い出す為”の材 料だ。




「芸術品のような時間」というのは、

前里が作り出す空間のことを指します。

僕は、芸術品に触れた瞬間と、

豊かさを味わった瞬間をイコールにしました。


それは、「在り方」という最重要事項を、

心で理解する方法のひとつだと伝えたいから。


そして2013年の始まりに前里光秀が創る芸術品は、

「ひとつひとつ」の中の”ひとつ”となり、

私たちに豊かさを思い出させてくれるだろう。


ある方が言った前里の講義に対する表現は、

まさにその通りだと僕も感じます。


真っ白なキャンバスに、

絵の具が塗られていく。

まるで脈絡のない場所から始まる一筆目は

次に塗られる絵の具の下地になるのか、

それともそれが構図の中心になるのか。

それは誰にもわからない。

前里にもわからない。

セッションを「生もの」と 表現するのだから当たり前かもしれない。

むしろ、始めから完成型を知りながら描く絵画など、

つまらないものになりそうだ。

一筆一筆が、奇妙な繋がりと脈絡の無さを繰り返し、

ふと気づくと、最初の絵の具の役割を知ることになる。

そうやって1枚の絵画が完成していく。

僕はそれを眺めながら、

まるで美術館にでもいるような気分になる。

だけど、実は常に未完成で、

最後の最後は描かない。


でも、もしかしたら前里は描いているのかもしれない。

しかし、何百年も前の絵画を永遠に眺めても、

すべてを知ることは出来ない。

また、知る必要も無いはずです。

感じるものだから。

前里の創り出す芸術品も、それと同じだと僕は思っています。

「知ろうとせずに感じるから、知る」

結局はそうなるのだろうと。



2012年という有名な年が終わり、

「2013年の初めにENDを迎える」

という言葉を伝えてきたSANが存在し、

前里のカウンセリングが始まる。


「その意味」

「その意義」


そこには豊かさの香りが漂っている。

どんな香りなのかは、心で感じるようになっている。


人生はいつの瞬間も完璧なタイミングで創られています。

タイミングとは選択肢のことでもある。

そし て、選択肢を選択するのも心。



「心」を主導として生きることが最良の人生の歩み方。

そして私たちは常に「心」主導で歩んでいながら、

それを忘れている。


SANが伝える「END」を

「心」主導を知りながら迎える時、

「END」は豊かさの街への入り口となり、

「BEGIN」と呼ばれる日になるかもしれない。



「芸術品に心で触れる」



それは、新しい年の豊かな始め方であり、

心を開放する瞬間なのかもしれませんね。




前里光秀研究所 川満由希夫
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