3.突然現れた人攫いの女性 【 和田一真の告白 】 

「一番街」と呼ばれる商店街。家を出てすぐ見える緩い坂道は、春には桜のトンネルとなりました。風で揺れたピンク色が、欠片となって舞い降りてくる美しい坂道でした。私はいつも、母親に手を引かれ歩いていました。

あの頃の私はその美しさに気づきも感動もしませんでした。その美しさをどう捉えたらいいのか、分からなかったのです。

桜の坂道を降りて、夏の一番街。私の原風景のひとつは、そこにありました。後悔か懺悔か記憶を再生するたびに、胸が熱くなる思いが今も続いています。

あるとき、一番街のお祭りに出かけました。たくさんの人ごみの中で、私は母親の手を離すまいと右手を握りしめながら歩いていました。

人の足しか見えない私は、気づくと自動販売機の前にいました。隣にいる母親に向かって「お母さん、これを飲みたい」。そう言うと、たしかに「いいわよ」と言われました。コーヒー牛乳を買ってくれました。

「ありがとう」と言い顔を見上げると、そこにいたのは見知らぬ女性でした。驚いた僕を安心させようとしたか、笑顔で顔を覗きこんできました。

私は気づかぬうちに、母親とはぐれていました。怖くなった私は、挨拶もせずに走ってその場を逃げ出しました。

すぐに母親とは会えました。しかしコーヒー牛乳を片手に持っていたので説明に困りました。それでも事情を話すと、母親も私を責めませんでした。

「お礼を言わないと」。そう言った母親と自動販売機まで戻りましたが、その女性はいませんでした。

私にコーヒー牛乳を買ってくれた優しい女性。その顔を見たのは一瞬でしたが、はっきりと憶えています。優しい目と口角だけはいまだに憶えています。

また、それを思い出すたびに言いようのない切ない気持ちになります。そして逆もあります。

あの髪の長い女性は、もしかしたら私を攫いに来たのではないかという疑念。あんなに優しかった女性の顔が、その後に幾度となく幽霊のように脳裏によみがえり、真夜中の私を叩き起こしたのです。

同じようにCMで映るマクドナルドのキャラクターが悪魔に見えたり、居間で聞こえる両親の話し声がいつか私を捨てようとしているのではないかと悪意もなく想像していました。

「一真は、橋の下で拾った子だ」

体格もよく180センチ近くある父親は、顔も渡哲也風で子どもながらに憧れの存在でした。そんな父親が、甘えん坊の私を揶揄するように、よくそう言ったものでした。

末っ子として甘えて育った私。努力や忍耐とは無縁の私に、「強い男になれ」。そう育てたかった父親に応えなかった私への教育だったのではないでしょうか。

この頃から、私は寝つきの悪い子どもでした。恵まれた家庭に生まれながら、言いようのない不安を抱え、思考はいつも同じ問いを繰り返していました。
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