「学問への招待状」   川満由希夫 


「学問への招待状」 
                   
川満由希夫




“University” も “College” も語源的には「組合」という意味であり、
学問を目指して集まった学生または教師集団の自治組織が大学の起源。


日本ではヨーロッパよりも相当早く670年に登場した「大学寮」
国家によって,国家に役立つ人材の育成を目的として作られたものが最初である。

(サイトより引用)




いつの地点で始まったのかは重要ではないのかもしれないが、

もともと「大学」という概念が存在していなければ、

前里光秀大学も存在しなかった可能性がある。

もちろん「大学」という概念、言葉がなかったとしても、

異なる学びの形は存在していただろうが。


どちらにせよ、起源に感謝するという意味を込めて、起源を知るところから始めたい。












「学ぶことは礼儀である」




これはどういうことか。

誰に対して、何に対しての礼儀なのだろうか。

思わず立ち止まってしまうような、なぜか敬意を表したくなるような言葉だ。


教育者として在る私達の中には

常に「学び」にまつわる想いが他と共存しているが

極致にあるであろうこの言葉は、それを未熟さに際立てるほどだ。





人間は学びの塊でできている。

生まれてからずっと、いや、その前からずっと学び続けている。

泣くことを学び、歩くこと、そして言葉を学び、感情さえも学んで表現する。

そしてその表現の仕方も。

私たちが人として生きていく過程のどの部分を切り取っても

学んでいない瞬間はないのだ。

成長という言葉にすればわかりやすい。人は必ず成長していく。

それは学ぶという行為が元になっている。

だから、”学ぶことは生きる行為ですらある”と言える。


「これ以上の学びを禁ずる」


仮にそう言われた時、人は生きる行為を奪われることに等しいのだ。

そこから得るエネルギーを身体に蓄え、それを元に生きているのだから

それが枯渇してしまったら、人は生きることが困難になってしまう。

大げさではなく、学びとはそれほどまでにわたしたちに密着していると言いたい。



しかしながら、ここまでにお伝えした内容は実は平坦である。

当たり前すぎるという意味での”平坦”だ。



学ぶことは当たり前なのだ。

平坦に学ぶという意味は、他に突出することなく、

誰もが通る学びの道を歩んでいるだけだととらえていただきたい。

生きる為の学びは自分の為の学びである。

誇張すると”自分のためだけの学び”なのだ。



しかし、私たちはそうで在るわけにはいかない。

いや、そうで在ることはできないのかもしれない。



なぜそう言えるのか。

それは、私達が幾多の学びの上に存在しているからだ。

物理的世界の観点からは”先人たちが積み上げてきた…”

という流れになる。その続きは容易に予想できるだろうから

あえては書かない。

しかし、その観点も重要であり、そこに敬意を払う必要もある。

それは結果、先人たちの学びは「他の為」の学びであったからだ。






ここからはまたいくつかの観点から学びを見ていくことにする。


この世界で快適に生きるルールの一つに「他の為」がある。

「自の為」ではなく他の為に何ができるか。

それが重要項目の一つである。


平坦は自の為の学びであるから、普通に生きている以上

学びとしては他の為にはならない。

逆に突出した学びは必ず他の為になる。

そして突出した学びというものは、向こうからは絶対にやって来ない。

自ら向かわなければ巡り会えない。

「学問」という域に入ってくるからだ。

もともと学問というものは命令されて行うものではなく、

自発的に行うものである。

だから学問に没頭する人は、知らず知らず他の為に生きていることになる。

この世界には学問に没頭する人が計り知れなく存在する。

結局その人たちは「私」の為に学んでくれているのだ。

「私」の為に生きてくれているのだ。


それはありがたいことである。






また別の観点から学びを考えてみる。


急展開のように感じるかもしれないが、これもこの世界のルールだ。

「パラレルリアリティ」「私たちはひとつ」

この2つの性質上こういうことが言える。

物理世界ならではの表現を交えるが、矛盾を突かずに理解していただきたい。

仮に「私」を軸に進めるとしたら、「私」は無数のリアリティに同時に存在し

互いに共鳴し、共有し合っている。

今こうしているあなたも、他のリアリティの「私」からの影響があるのだ。

身近な思考に近づけた表現だと



「アイデアが浮かぶのは、それをすでに実行している「私」が、

他のリアリティに存在しているからで、そこと繋がるからアイデアが浮かぶのだ」



とすればここにいる「私」も他のリアリティの「私」に影響を与えている。

そして、ここにいる「私」の周りにも

他のリアリティの「私」の周りにも「人」がいて

それぞれがまた「人」にも影響を与えている。 

その「人」もまた他の「人」に影響を与えている。

もうお分かりだろうが、「私」が学びに没頭し、高みに上がっていくことは

「私」×無数のリアリティの「私」×その周りの「人」×またその周りの人×・・・・

そのすべてに影響を与えていることになる。


凄まじい。


「究極の他の為」ではないだろうか。







そして最後に「私たちはひとつ」という観点から。


もうすでにその要素を含んだ内容は書いているが

もっとシンプルに伝えると


「私」が学び上がることは「私たち」が学び上がることなのである。


もうすでに「自他ではない」ということだ。

ここまでくると目が眩むような感覚になる。


しかし、前里光秀大学はここまでを”平坦”とした在り方で開校する。





最後に最初に戻ろう。



「学ぶことは礼儀である」


他も他の為に学んでいる。

それは「私」の為でもある。

となれば、感謝が必要だ。

御礼をする必要がある。

頂いたのだからお返しが必要である。

そのお返しとは「私」が学ぶことに他ならない。










だから「学ぶことは礼儀である」






前里光秀研究所 川満由希夫






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