「何をしたいのか分からない」
とてもいいです。
正解不正解で言えば
「大正解!」○○したい!と望んでいることは、
既に使い古され
飽きてしまった概念。
SANが伝えてくれたこの情報に、
度肝を抜かれた方は多いはずです。
本当に自分がやりたいことは、
実は
わからないようになっている。
思考の中でキャッチすることはできないようになっている。
「やりたいやりたい」と望むほど、
「飽きた飽きた」と言っていることになる。
不思議です。
そしてちょっと頭が混乱しました。
「じゃあどうすれば・・・?」
当然そうなりますね。
シンプルな答えは
「行動」
動いてみて、やってみて
初めて気づくことがありますね。
「初めて○○をやってみたら、思ったより楽しかった。」
もっと身近なところで言うと
「食べてみたら意外に美味しかった」
わかりやすい例を出してみましたが、
本当にやりたいことは、
やってみて初めてわかる。
そして、実は僕たちは常にそれの繰り返しで生きてきたはずです。
生まれてからずっと
「初めて」の連続。初めて何かを体験してから、
好きなのかそうじゃないのかを決定し続けている。
そして好きなことだけを続けてきている。
すでにSANの伝えてくれた
情報の中にいる。
だけどそうじゃないように思えるのは、
その
シンプルの連続であるはずの流れに、
無理やり隙間を作り、その隙間に
複雑な思考を挟んでいる。
「あれじゃないこれじゃない、できるできない」
「本当にやりたい? やりたくない?」
「大変そう・・・ 」
やってみないと出来るかどうかもわからない。
やってみないと好きか嫌いかもわからない。
やってみないと大変なのかどうかもわからない。
たとえ先にそれを経験している人から事前に話を聞いても、
何においても、
自分で体験しないと感じることができない。
だから
行動が大事なんですね。
もちろん考えることも大事です。
だけど
「複雑に考える」のとそれは違う。
たとえば
「迷い」という状態にあるなら、
それは
「複雑に考えている」と判断しても良い。
迷っているならなおさら動かないと
結果は出ない。「動かない」を選択した場合、
迷ったままの状態で
在り続けることになる。
たとえ何に迷っていたのかを忘れてしまったとしてもです。
先日の個人説明会のいらしたある方は迷っていました。
大きく言えば
人生に迷っていました。どうやって、何をしていくのが自分に合っているのか。
迷っていました。
でもその方の迷いはなくなります。
「なくなりました」という方が正しいのかもしれません。
なぜなら
動いたから。個人説明会に行こうと決めたから。
そしてチャネリング会に参加することを決めた。
今月
最後の日のチャネリング会。その方は質問をするでしょう。
そこにはその方の迷いの答えが用意されています。
だからと言って、
チャネリング会の当日まで迷いが続くわけではない。
実は個人説明会に初めて行ってみよう!と決めた時点で
その方の迷いはなくなっている。
「何をすべきか」
その答えがある場所を自ら
嗅ぎつけたのだから。
人は自分の評価をどちらかといえば
低めに見積もります。たとえば「個人説明会に参加する」
と決めた自分の
決断の冴えを、
大したことではないと決める。
「チャネリング会に参加する」という重要な決断のきっかけになったその日を
何気ない日常にしてしまう。
それが
「迷いから解放される行動」なのにもかかわらず。
そして、その行動をすると
決めたのが、
自分自身であることも忘れる。
全部逆です。
多少は傲慢に「自分の決断の価値」
を喜んでもいいのではないでしょうか。
そうすることで、さらに
決断の質は上がる。行動力が上がる。
結果、本当にやりたいことを、
いつの間にか普通にやっていることに
気づく日が来る。選択肢はかならず
みんなの前にあります。
それが
目に映っているのなら、
どれかを選択し、
動く決断をするべきです。
前里光秀研究所
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